三重の塔建立記


清水寺の三重塔は、三層ですが御重 (ごじゅう) の塔と称されます。清水寺の縁起書によると、昔宝塔があり、永禄・天正の尼子毛利の合戦により焼失したとあります。江戸期に入り、再建の声が高まり、文化年間、再建の代表に蓮乗院住職恵教和尚が推されました。当時、山内 6 カ寺あり昔時の隆盛さが沈滞していた頃で、一山の再興を念願して宝塔再建の大事業に挺身されました。

場所は最初、蓮乗院の後山が予定されていたが、風致上、清水寺鬼門鎮護云々で現在地に決まった。塔の建築に当り、大工を選ぶことにしたが仲々適任者がなく、その頃宮大工としてその名も聞こえた九重村の棟梁富谷一家に協力を求めた。そして、松江藩のお城大工をつとめ、母里藩のお抱えとなり、宮造りに技能を持っていた富谷覚太に決まった。
恵教和尚は覚太と設計を打ち合わせ、参考にする為、京の清水寺、四国の善通寺などの名塔を実地検分し郷土色豊かな独特の設計にし、古代の眺める塔から、登る塔の内部構造にした。重要な桝斗の組み方に茄子を切って組み立てたとも伝えられている。使用木材は、但馬の国からケヤキ材の良質を求め、日本海沿岸を曳航して安来灘に帰り、三年間汐浸けといって海に浸け、それをこんどは坂本 (今の清水町) の堤池に浸け、汐抜き三年、それを山内に運搬、塔の下の常念仏堂前に積み、乾燥三年の本格的段取りを踏んで下準備をした。この用材運搬については、連日安来灘から材木運びがあり、沢山の人々が綱を曳いて、音頭をとって奉仕をしたと伝えています。

塔の基礎工事は、幸にも清水寺裏山に岩石が多く、山頂から切り出して自給自足をした。急坂を二段構えに石垣を唐風様式に積み上げ、塔の位置に安定感を与えた。常念仏堂側の山壁が未完成の感じであるが、この所は第二期工事に仕上げる計画であったが、資金が欠乏して中止の形になったと伝えている。

ところが、肝心の棟梁富谷覚太が老齢で文政 11 年 8 月 1 日没したので一同失望したが、倅の二代目由助が棟梁となり、恵教和尚とコンビを組んで難工事に精進した。次に、第一の指導者であった恵教和尚が病気となり、天保 14 年 10 月 3 日 65 歳で遷化され、一同関係者は悲嘆にくれて一時工事も中絶するかにみえたが、大宝坊青山教好和尚をはじめ全山の宗徒が奮起し、更に雲伯各地の信仰心のある人々に勧進行脚をして浄財を蒐め、工事貫徹に力を尽くした。

二段楷を組み終わった頃、棟梁の由助が心労の為、病死。(弘化 3 年 5 月 17 日没)

こんどはその子唯市が三代目棟梁を継ぎ遂に第三段の組み立ての難関を完成した。時に、明治も近い安政 6 年 4 月 3 日 (1859 年)

恵教和尚、真浄和尚、棟梁富谷三代、覚太、由助、唯市、実に着工から三十三カ年の歳月と莫大な経費により、郷土の大工の手により精魂を傾けた三重塔が完成したのである。宝塔再建の声が叫ばれてから百余年の陣痛に耐えて遂に辛酸の結果、山陰に珍しい唯一の木造建築の宝塔が生まれたのである。

宝塔建立大供養には、大宝坊の青山教好師を大導師に、当山の僧俗全員、近隣の寺僧も参加回向し、物故者も併せて供養し、蓮乗院真浄和尚が大先導をつとめ、善男善女の参詣者無慮幾万を数え、前代未聞の人の波で全山埋め尽くしたと伝えられている。

上代の見上げる塔より、登る塔として設計され、三層まで狭い階段 (梯子) を登って匂欄のある回廊に出られ、山野の眺望が見事である。高さは基礎から棟まで 21.21 メートル、相輪の先端までだと 33.33 メートルある。相輪は宇波の鋳物師の作、付属の金具類を新町の吉村庄三郎がつくった。今日までよく風雪に耐え、威容を保持し、昭和 30 年頃に屋根替えを一回、平成 11 年に屋根替えと部分的修復を終え現在に至っている。

私共は清水自衛消防隊員として清水観光協会員としてまた信徒としてこの宝塔を守り、後世に遺していく責任がありますが、このような苦労の末に建てられたことを思うとその決意を新にせざるをえません。

この建立記は郷土史家の松本興著、安来タイムズ社発行の『安来の歴史』第三巻を参考にしました。