清水寺縁起

清水寺は用明天皇 2 年 (西暦 587 年) 山城国の人、尊隆上人によって開かれたお寺です。

寺伝によると当時は山深く谷狭まり、近づく者とてない気味の悪い山であったと。ところが夜になると一条の光が現れ、里人を怖がらせていた。

そんな折り、山陰道を教えを説いて巡っていた尊隆上人が通りかかり、光の源を探るべく山の中腹まで登ってくると、一人の白髪の老人 (揚命仙人) が現れ「今日まで観音様をお祀りしてきたが、そろそろ次の世に往かねばならぬので、替わりに観音様をお祀りしてくれる人を探していた。」と一体の霊像を託された。尊隆上人が小さな草堂を結んで霊像を安置したのがお寺の始まりです。

しかし、当時は水が一滴も出なかったそうで、一週間の間、水が出るように蜜行を施すと、草堂の直ぐ側から水が湧き出し、その水が雨期にも濁ることなく、乾期にも枯れることなく、常に清い水を湛えたところから、山号を「観音様に巡り合える幸せな光が出た」ことから瑞光山とし、寺名を清水寺と名付けたと伝えられている。

推古天皇 5 年 (597 年)、天皇は詔を奉じて新たに本堂を造営させ、斎田を施し、鎮護国家の道場として尊信された。その後寺運が衰微していたところ平城天皇の時代に僧成縁が再興した。これにより当時は中国地方随一の伽藍を誇ったとのこと。その後、朝廷・豪族の庇護を受けて益々栄え、盛時には僧坊 48 を数えたと云われる。

しかし、戦国時代となり、尼子毛利の戦いに巻き込まれ、尼子軍が根本堂に立て籠もった為、毛利軍によって焼き打ちに合い、根本堂のみを残して全山廃尽に帰した。その後勝った毛利家、江戸時代に入ってからは松江藩主代々の庇護を受け、今日の姿に復興した。

開山当時の宗派は不明であるが、承和 14 年 (847 年) 比叡山の慈覚大師円仁が唐留学の帰路当山に立ち寄られ、秘密大潅頂 (かんじょう) 光明真言 (今日の諷誦法要) の秘法と、精進料理 (現在の精進料理、清水羊羹) を伝習される。これを機に天台宗となり比叡山延暦寺を本山として、以後天台密教を修法する祈祷寺として今日に至る。(清水寺ホームページより)

尊隆上人と成縁上人を伝えるものとして、展望台から下りた所の三重の塔裏にある 2 つの石碑が、清水寺開祖の尊隆聖人と中興の祖の成縁聖人のものであり、横の石像が三重の塔建立を発願した恵教和尚、手前の石碑が三重の塔建立大供養を執り行った青山教好師のものである。